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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

1月のみ言葉 と 意向  宗教科 納富 幸夫

 1月のみことば「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生(めば)えている。」(「イザヤ書」第43章19節)は、「受難の福音史家」と呼ばれていた預言者イザヤのみことばです。バビロン捕囚前から捕囚解放後にかけて、ユダヤの人たちに多くの指示を与え、救い主である神の御子の誕生を告げた預言者です。
 旧約時代に重大な活躍をしたのは、預言者といわれる人たちでした。以前お話しした「イザヤ書」の説明の後、「預言者の職業上の身分はどこですか?」という質問がいくつかありましたので、そのことについて説明しておきたいと思います。
 今日、「預言者」という言葉は、「未来を告げる人」という意味にとられていますが、昔のイスラエルでは、もっと広い、厳かな意味をもつものでありました。調べてみますと、ヘブライ語の「ナビ」(預言者)には「呼ぶ」とか「告げる」の意味があります。イスラエルの「預言者」は、神によって「召し出された者」であり、「神のみ名をもって語り、神から特に使命を受けた人」、通常「神の使者」であったのです。ですから預言者の言葉だけではなく、その行いも、その生活も、すべてが「預言」でありました。預言者自身が一つの「しるし」であり、「シンボル」であり、「教え」であると考えられていたのです。
 預言者の使命は、当時は、司祭や王のような役割を果たしており、私たちが考えているような社会の固定された一階級としての役割はありませんでした。それは特別な「召し出し」であって、社会の各層の人たちが男女を問わず、貧富を問わず、知恵のあるなしを問わず、神に召し出されていたのです。神からの使命を受けた預言者は、司祭にも俗人にも、貴族にも平民にも、忠告を与え、神の道から離れがちな人びとを神へと立ち返るように呼び戻していました。過去の歴史を思い出させ、現在の出来事を批判し、ときには、未来に起きる出来事をも預言していました。預言者の宣言には、いつも厳しさと同時に、慰めで満ちていました。
「エレミアの預言」を開いてみますと、彼の言葉は常に厳しく、脅しと叱責が多く見られます。その厳しさこそが、真の預言の「しるし」なのでしょう。しかしそこには、必ず救いの希望が告げられています。「イザヤ書」の『なぐさめの巻』(第40 ~ 55章)等は、その絶頂であるといわれています。さらにイスラエルの人たちのために神から遣わされた預言者ですが、彼らは常にイスラエルだけのことを考えていた訳ではありません。三大預言者と呼ばれている「イザヤ」(第13 ~ 23章)、「エレミア」(第45 ~ 51章)、「エゼキエル」(第25 ~ 32章)らは、異国の人々に向かっても預言を行っていますし、「アモス書」の中では、イスラエルの隣国に裁きの言葉さえ述べています。また預言者は、自分が神の道具に過ぎないこと、その「ことば」は自分のものであっても自分のものではないことを十分に理解していました。その上、預言者は、神のみことばを受けてそれを人々に伝えなければならない者だと確信し、だれもそれを妨害できないことも知っていました。その確信は、神との接触という神秘な経験に基づいているからだといわれています。しかし、預言者の言葉が間違いなく、神からのものであることをどうして見分けられるのでしょうか。これについては、聖書には二つの基準が示されています。一つは、「エレミア書」第28章9節に見ることができる預言の実現、もう一つは、唯神論の教義に沿った預言であるということです。
 神が要求されていることへの服従と、神への愛に人間を引き戻すために神から遣わされたことを使命としている預言者たちは、まさしく「神の人」でありました。神の光によって現在を判断し、将来を予見し、自分の使命を果たすためには、惜しみなく生命をも捧げたのです。それは神への忠実と、真理と愛の殉教者という使命そのものだからなのでしょう。

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